東京の男衆が、
啖呵(たんか)をきかせて相手を罵倒する時に使う言葉です。
久しぶりに見る文字です。
『十四歳から』とは、大人のためのという意味でしょうか!
中身の濃い、現場を知っている人から
著者がじかに聞いた内容を伝えている。
なぜ、日本に原子力発電所が出来たのか?
社会学者の開沼博さんに聞く。
福島の原発の近くでは、
「原子力最中、原子力つけめん」が売られていた。
「回転寿司アトム、アトム観光、ブックスアトム」アトムだらけ。
「原子力 明るい未来のエネルギー、地球にやさしいエネルギー 原子力」
町の至る所に古ぼけたゲートがある。
原発のある町がアトムだらけになったか?
原発というキーワードで日本の戦後史が紐解ける。
権力や利権、欲望をめぐる骨肉の争いのようだとも。
戦後アメリカが、原子力発電の
技術を世界に売ってもうけたかった。
被爆国の日本に売り込むために、
広島を
はじめ全国でマスコミを使って原子力博覧会を開いた。
政治家では、中曽根康弘初代科学技術庁長官、元総理大臣。
正力松太郎;政治家、元読売新聞社社主。
中曽根は、電力なき経済成長はあり得ないと主張。
正力は、 原発が非常に大きな利権、
自分にとって大きなメリットがあると感じていた。
プロ野球、日本テレビ、読売新聞を拡大させた。
戦後の始まりに娯楽やメディアと
同時に原発を
作ったことは非常に象徴的。
1955年の原子力基本法が成立してアメリカから核技術の導入が始まる。
「こころ やさしい ラララ 科学の子」
鉄腕アトム 夢のエネルギーといわれても
疑いを持たない感じだった。
アトムは、胸の中に原発を入れていたわけですが、
敵と戦っても放射能漏れはおこさなかった。
原子力; 良く分かんないけれど、ものすごいもので、
「まあ 置いてみるか」
という話になりやすかった。
地方に対して巨大公共工事のようで、工場が出来て
雇用が生まれお金が入ってくるからいいじゃないか。
原爆の悲惨さを知っている時代に
原発を受け入れたのか不思議。
占領下では、
原爆の被害を語ることはタブーだったことに関係しますね。
なぜ、最初にフクシマ第一原発ができたのか?
戦争中に軍用飛行場があった所で
西武グループを作った堤康次郎が
国から払い下げを受けていた土地。
塩が出てくるような土地で、水田は作れない。
各地で原発の誘致が盛んだった。
電源三法交付金、核燃料税、原発施設の固定資産税など
大量にお金が入ってくる、
原爆と同じじゃないかと聞かれても、
そんなことはないと返されると、
それを
信じるしかない時代だった。
原発が危ないと言い出されたのは1970年代からで
社会党が原発反対を明確にする。
1979年アメリカ、スリーマイル島原発事故、
1986年ソ連チェルノブイリ原発事故、
東京に原発をと反原発運動もあったが・・
一度原発が動き出すと
麻薬のように原発から得られる利潤に依存するようになり
フクシマに原発が
10基も並んだ。
もっと作ってくれと。
電力の自由化をされては独占のメリットが
なくなるので世界でもまれな地域独占電力会社が存続している。
労働組合の電力総連も原発を推進しているので
今の政府は原発中止を言い出せない。
生命よりも損得の法則で原発を稼働してきたのが良く分かります。
原発を止めるのは日本の集団自殺になると
いった政治家がいました。
今ほとんどの原発が止まっていますが何とかやっています。
放射能を制御する技術がない以上、
原発は途方もないリスクになります。
使用済み核燃料や放射能廃棄物の処理方法が、決まっていない。
原子力発電所がテロ組織に攻撃されたら危険極まりない、
原子力建屋をたたけば
良いとバレテしまったからなおさら。
同志社大の浜教授が言っていました。
今の技術は「魔法使いの弟子」レベルで
使いだしはできても使いこなせないと。
いくらエネルギーを作っても、
地方の商店街シャッター通りは活気が戻らない。
今までのやり方の反対のやり方を試みるべきではないか。
老いは 楽
となるように、
被爆国でフクシマを体験している国として
世界に今までと違った文明のあり方を
示すべきと、うかがいました。

河出書房新社 雨宮処凛(かりん)著
1200円+税 ぜひお読みください!

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