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あんどう眼科医院
三次市三次町巴橋西詰
No262.2009.8.6〜院内にて配布
        お知らせ
 8月13日(木)〜16(日)は、お盆休みです。
  お気をつけください。


  8月24日(月)は、都合により午前のみ
  診療となります。
  
午後は、休診ですご注意ください。

  畑の肥やしは、あるじの足跡。』 
  あるドラマでのせりふ。毎日 見て回ることが、
  農作業・園芸の基本ですね。
  何かと農作業の多い季節、汗をかいたら
  石鹸を付けてさっぱり顔を洗いましょう。
  まぶたのただれや結膜炎、ものもらい予防に
           一番です。


  
86日は、原爆の日。合掌。
  広島の平和記念公園では、セミの合唱が
  にぎやかでしたが、近くでは、ニイニイゼミ
  にしろ  アブラゼミにしろ声を
             聞きません。
  今、照林坊のお寺のほうから「ツクツクホウーシ」
  と、聞こえてきました。
  もう、お盆ですか!変な天候です。
  お米の出来やや不良とのこと。
  台風
8号が宮古島に接近中ですが、クジラの
  しっぽ守って欲しいですね。


○ 8月30日(日)みよしまちづくりセンター
  (山田整形近く)で
14時より広大学長浅原先生の
  “希望に満ちた 未来社会に向けて”の演題で
   講演会が開催されます。作木出身の医師です。
   丁度、未来社会を決める代議士さんを
   選ぶ選挙の日です。
   投票を
し講演会
にもご参加ください。

                  

 夏の主役 太平洋高気圧の西日本への張り出しが遅れています。
この西日本への
高気圧の張り出し方が、クジラのしっぽの様に天気図の
等圧線形に現れるわけです。それにしても、北京の最高気温が30℃ぐらいと
暑くありません。北からの寒気が来ているのでしょうね。
北からの高気圧で8月4日は晴れて来たのでしょうか?
このタイミングで
広島気象台は梅雨明け発表。
昨年より29日遅く。
平年よりも15日遅かった。
1951
年以降でもっとも遅い梅雨明けでした。やはりエルニーニョ現象のせいで、
大気の対流活動が平年より南の赤道付近で活発化し、
亜熱帯ジェット気流の南下と
蛇行を持続させたためと気象庁の見解。
そうですか、
では暑い夏が来ると
予想していたのが、何時から狂いだしたのか検討して欲しいですね。
7月に起きた北九州や山口県での土砂災害の予防に役立つ危険情報を
出すのに
気象予測は欠かせませんから。
 7月の冷夏は、16年前のタイからのお米を食べた
東北地方を中心にした大冷夏以来。あの年の夏に日本新党ブームが起き総選挙で
自民党が下野。しかし、あの7か8かの政党や政治グループの連立政権で、
お殿様が
夜中に付加価値税の発表をしてからガタガタに成って、自滅。

政治混乱を長引かせることになりました。
覚えていますよね。
ビジョンのない政治。
大蔵官僚に・・・・・・でしょうか?

 8月4日は.オバマ大統領の48歳にお誕生日、若いですね。
記者会見場にお祝いのケーキを持って
現れこの日が同じく89歳の誕生日の
女性
大統領番記者の誕生日祝いをしたと。すごいですね、この人の心くばりはと
思っていたら、クリントン元大統領の北朝鮮訪問。アメリカ人女性
記者の解放を
求めて。奥さんのヒラリー国務長官が大変非難していたのですが、
北朝鮮も
アメリカも交渉強いですね。
日本が見習うべき交渉術
誕生日のお祝いの裏で気が気でなっかたでしょうね。


 日本の気象予報の精度を
高めると共に
災害被害の拡大を防ぐ現実的な情報を早めに出して、
あの市役所の
職員も呑気に構えていられないようにして欲しい。
 
政治家も、国民の幸せを第一に考える政策を勉強して欲しい。
高齢者は働くしか才能がない』と、懲りない悪言・・・オバマさんが欲しいですね。


       

 島根県浜田で1943年に旧制中学1年生になった著者の戦中戦後の回想録
1941128日とうとう日米開戦となった時、
日本軍に協力的であった父の態度は
一変。『日本は敗る。馬鹿な戦争を始めやがって』
『今度の米国との戦争は必ず敗ける』と断言するので、
町民の憎悪はひどく非国民、敵に通じるものと陰口を。

 父は診療所の医師だった。小学生だった著者は、けんかばかりをしていた。
この時代、一芸に秀でる者がエラかった。
最も価値の高い一芸といえば喧嘩だった。
当時の中学校の様子が語られます。
入学して最初の学習は、教練。 
校長先生が大の教練好き。教練なくして中学なし。
第五師団(中国地方五県の軍隊)の
配下にある中学校の教練で一番になることしか頭になかったのだろう。
さらに威張っていたのが配属将校。中学生にも日本兵の代用が出来るように
教練することが任務。中尉の生意気さ加減には目を背けたくなった。
最初の朝礼で命令したのが「軍人勅諭と戦陣訓を、一字一句間違いなく覚えよ、
一ヶ月以内に。」先生や上級生らも、生徒を懲罰と暴力で制裁した。
直立不動の時に、指一本でも曲がっていたら全体責任だ。体罰の連続。
罪もないのに罰がある。数人を除いた先生たちもひどかったが五年生の週番が
ひどかった。軍隊でもこんな暴力が横行していたのだろう。員数合わせという、
ベルトや靴の数が、一本でも足りないと全体責任で夜通し罰を受ける。
こんなことにエネルギーを費やしていては戦争に勝てるはずがない。
二年間も勉強もせずにした河川や田畑の復旧作業もめどが付いたところは
一つもなかった。原爆投下の三日後に広島にとてつもない爆弾が落ちたと、
大怪我をして歩いて浜田に逃げてきた患者さんがいた。
敗戦を、終戦と言いかえる。
鬼畜米英、神国日本など疲れきった国民を叱咤激励していた報道機関は、
負けて一日たてば国民総懺悔とはよく言うものだ。町民からの我が家への
風当たりも一変。坂根家を見習え、坂根家が模範だ、と持ち上げられるのも

腹が立つというよりも呆れた。


<幻冬舎ルネッサンス 1300円+税>

     


                        

 大阪で医師を続けた著者が、77歳を向かえ、強烈に覚えているあの時代のことを
書きしるした。なかなか聞けない話です。
人が知らずに、次第に進んで戦争に追いやられた時代の流れを知るのに大変参考に
なりました。明治維新の国づくりの行き着く先の結末でした。

 
81日(土)の花火大会は雨中花火となりました。観客は大雨で一斉に
帰られましたが、雷もカゼもないのをみてか
15分の中断後、残りの花火を全部
打ち上げた。きれいでした。お疲れ様でした。